熊本で3歳の女児の死体を遺棄した容疑で20歳の大学生が逮捕された。まったく、世の中には恐ろしい人間がいるものである。

さて、報じられているところによると、容疑者の通っていた大学の学長は、事件の報を受けて「緊急記者会見」を開き、「学生が重大な問題を引き起こし、被害者の方に申し訳ない」と何度も頭を下げて謝罪したという。この謝罪の意味するところを少し考えてみたい。

これは「日本的謝罪」というべき典型的な事例であると思う。犯人は既に「立派な」成人である。大学に非はない、と考えるのが普通である。この学生は学校を長期間休んでいたと言うし、そもそも大学は学問をするところである、生活指導の必要などないし、「命の尊さ」とやらを教える所でもない。

それとも大学が本気で「被害者の方に申し訳ない」と考え「大学にも責任がある」と言うなら、今後行われるであろう刑事裁判において、この大学生と一緒に被告人席にでも立つつもりか? あるいは被害者家族に何らかのかたちで「つぐない」でもするつもりか? おそらく、そうではなかろう・・・。

大学に罪はない」と、記者会見を開いた大学側も、集まった記者達も皆、実は分かっているのである。

しかし、やはりこういう場合、大学のトップが頭を下げて謝罪する場を設けねば済まないのが、日本の社会であり文化である。外国人などにはなかなか理解されにくい日本の特殊性ではなかろうか。一般論として言うが、どんな「過ち」をしでかしたのか自他共に不明瞭なまま、ただ謝罪して当面を丸く収めようとする、これが日本の謝罪のやり方だ。「謝罪は言葉だけでなくて、責任をとれ!、賠償をせよ!」当然、外国ならばこう考えるのではないか。実際、外交関係において、日本政府が長年にわたりこの「日本的謝罪」に終始してきた結果、近年周辺諸国と困った事態が生じているのは周知の通りだ。

話が脇に逸れた・・・。ともあれ、日本人の「謝罪する」と、例えばアメリカ人の「Apologize」の間には大きな懸隔が存することは、21世紀を生きる我々はよくよく肝に銘じておいた方が良いのかもしれない。海外はもとより、日本国内に於いても、前者の通用するような、日本的で、ある意味「牧歌的」な環境は徐々に狭まっている。私などの感覚でも、責任をとる積もりのない、かたちだけ、言葉だけの「謝罪」って何なの?という違和感があるのは事実だ。

かつてわが国では、自分の責任ではない過失や不祥事でも自分がやったことのように謝罪し、黙って恨み辛みを言わない人間が、「男らしい」などとして賞賛されていた。しかしこういう人間は、これからはなかなか評価されなくなるのではないか? なぜならこのような態度は、惹起された事件・事故がいかなる原因で起こったかを分析することを妨げ、責任の所在を不明瞭にし、再発防止に全く役立たないからである。すなわち「日本的解決」しかもたらさないやり方なのだ。(むろん僕もこういう人間像は嫌いではないけれど・・・。)

まだ「容疑者」の段階であるから断定的な物言いは避けたいが、罪もない幼児を殺めるなど、断じて許し難い鬼畜的行為である。犯人が法に則り厳正に処罰されることを願うとともに、この気の毒な児童のご冥福を心からお祈りする次第である。