近況報告

こんにちは。皆様、大変ご無沙汰しております。

ブログに対する熱意が冷めてしまって、すっかりここも放置状態でした。(反省、反省)

相変わらず、元気でやっております。お店の方はと申しますと、何度も足を運んで下さる「お得意様」も出来、低空飛行ながら、そこそこ順調に運営しております。

あっ、それから昨年、223日目にして頓挫した「禁酒」「禁煙」ですが、改めて再開致しました。飲みたい、吸いたいは、まだたまにありますが、だいぶ頻度が少なくなってきたところです。

また、ブログも少しずつ再開していきたいと思っています。どうか長い目でお見守り下さい。

ふりがな付きネーム印

新商品のご紹介です。

日本には沢山の苗字があります。そしてその中には、読むことが困難な苗字も珍しくありません。一例を申しますと、砂金(いさご)、五十公野(いずみの)、八月一日(ほづみ)、男女島(おめじま)、万年(おもと)、五十蔵(いほろい)、遠北(あちきた)・・・等です。さて、あなたはいくつ読むことが出来ましたか?

わが国にこういう珍しい苗字が多いことが、実は、われわれ印章店の存立を可能ならしめている一因なのですが、例えばこれがお隣の韓国ですと、金、李、朴、崔、鄭の上位5位で人口の54%位を占めますので、韓国で印章店を営業するということは考えただけで大変です。(既製品で間に合ってしまいますから・・・)

さて、当店ではこの度、難読の苗字・名前にふりがな(ルビ)を付けたネーム印を発売することになりました。ふりがな付のハンコであれば、それを見た人に自分の苗字(もしくは名前)の読み方をアピールできるという長所があります。ビジネスで自分の名前を早く覚えてもらうことは大切なことですからね。

併せて、最近はやりの「キラキラネーム」についてもルビを振ることが出来ます。希星(きらら)、絆星(きら)、来桜(らら)、月(あかり)・・・。(う?ん、何か我々の時とは時代が変わったなぁ。)このような、なかなか読むことが困難な名前もフリガナを付ければ誰にでも読んでもらうこと、覚えてもらうことが出来ます。

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「フリガナ付ネーム印」第1号として、「三枝(さえぐさ)」さんという印を作成致しました。

パソコン編集画面

先ずはパソコン上で編集します。ルビは小さくてもつぶれないようにゴシック体で。

押してみました!

紙に捺印してみました!

紙に捺印して私の携帯のカメラで撮影してみました。なかなかの出来です。少し見にくいので・・・

スキャンしてみました!

今度はスキャナーに取り込んでみました。十分ふりがなも読み取れます。商品化成功です。フリガナなしの普通のもの(当店価格1300円)より、手間と時間がかかりますので、以下の値段とさせて頂きます。ご注文をお待ち申し上げております。全国発送も可能です。

★「ブラザーネーム10」(当店特製ふりがな付シャチハタ型ネーム印直径10?) 一本2,000円(税込) 地方発送の場合、別に送料350円(実費)がかかります。

全国発送(通販)の詳細はこちらの頁をご覧下さい→電話・メール等による商品発送について

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〒174-0063 東京都板橋区前野町4-49-2-101

ハンコと印刷のスタンプリント

Tel 03-5392-6365 Fax 03-5392-6078

E-mail : info@stamprint.com

(PC用)http://www.stamprint.com/index4.html

(モバイル用)http://www5.ocn.ne.jp/~njs28/

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します・・・。と先ずは型どおりの挨拶を致しまして・・・。

さて・・・。

ついに「その日」が来てしまった。年が明けてすぐ、禁酒223日目で酒を飲んだ。

「機会があれば飲んでもいいや」という気持ちはずっと持っていたので、まあ、早晩訪れるべき再飲酒の日だったと思う。実際、この半年余りの禁酒期間で、「今日は飲むかもしれない、飲んでも良いな」という日が何日かあった。だがそうした機会にはことごとく運が良くて(悪くて?)飲まなかっただけなのである。例えばこの期間に友人の結婚式が二度ほどあったが、両日とも「勧められたら今日は飲もう」と、内心期待して(笑)臨んだにもかかわらず、誰からも勧めてもらえなかったのである。

「なんでノンアルコールビールなの?」

「酒止めてるんだ」(ワクワク)

「えっー!偉いじゃん。頑張れ!」(ガーン)

こんな軽い気持ちでやっていたのに禁酒が半年以上続いたことは、今から思えば、酒好きの僕としては奇跡に近いのだ。

飲んでしまった具体的な理由を今ここでつまびらかにするつもりはない。まあ一言で言えば、素面で直面するには困難な出来事が色々あったのだ。(むろん、それは「口実」若しくは「言い訳」なのだろう。要するに飲みたかったのだ・・・) 酒はその日一日で終わりにするつもりだったが、図ったかのようなタイミングで近親者の訃報が飛び込んできて、通夜では酒を飲むべきだろう(笑)と思ったから、それから帰省するまでの数日、そしてその後もずるずると毎日飲んでしまったのだ。だが今となっては理由はどうだってよい。いつかはこうなる事は分かっていた。

223日ぶりに口に含んだ麦酒は実に美味しかった。麦芽の味が驚くほど濃厚に感じられた。飲酒初日こそ直ぐに酩酊してしまい随分弱くなっているのを感じたが、二、三日で元の強さに戻った。いやさらにパワーアップしているようだ。なにしろ肝臓は、長期禁酒のお蔭で小学生に戻ったかのようなピチピチ、プルプルの状態。脂肪肝も解消。ガンガン飲めてしまう・・・。

久しぶりの酩酊は心地よい。アルコールで頭が麻痺すると、僕と世間との、あるいは僕と僕自身との緊張関係が忽ちに解消される。自他を区別する境界線が曖昧になる。つかの間の休戦協定。自他一如の懐かしい世界。「復帰」を歓迎してくれる飲み友達。談笑。千鳥足。さあ、世界は今こそ完璧になった!

だが、飲み始めて10日くらいで、やはりこれはまずいと思い始めた。明らかに酒に対する依存度は以前のまま。いやむしろ依存度が増しているようにも感じられる。223日間、抑え付けられ心の片隅に潜伏していた飲酒欲求が、堰を切ったようにあふれ出す。夜のとばりが下りると強い飲酒欲求がおそってくる・・・。

アルコール依存症の進行過程を山登りに喩えると、僕は、すでに7?8合目まで来ているのかもしれない。今回の禁酒はあくまで山腹で腰をおろして「休憩」しただけなのであって、山を1メートルも下ってはいないのだ。

しかしそれにしても・・・飲んでしまった自分。酒や飲酒に関してさんざん偉そうなことを言ってきてコレだ。我ながら笑うしかない。だが、七転び八起き。近くまた禁酒を再開するつもりだ。今回の禁酒でシラフの世界がすばらしいことを実感した。酒を飲まない人間だけにゆるされた晴朗で明晰な世界。これを手放してしまうのは実に惜しい。もしもこのまま飲み続けたらどうなるだろうか、山頂まで登ってしまったら・・・。待っているのは悲惨な「遭難」でしかない・・・。それは分かりきっている。

今年もあと僅か・・・

今日は12月15日。もう年の瀬である。赤穂浪士討ち入りの昨夜は、金曜日ということもあって、忘年会帰りとおぼしき、ほろ酔い加減の男女を街頭でよく見かけた。

この時期、毎年決まって繰り返す感慨・・・、一年は早い!

一年が早いということは、歳をとること、老いることが早いということに他ならない。「若さ」だけではない、時の流れと共に色々なものが過ぎ去っていく。それらは全て「還ってこないもの」である。私の知己の中にも今年「還らぬ人」となった方々がいる。例えば私のサラリーマン時代の元同僚、Kさん。福島にゆかりのあるKさんは亡くなるすぐ前に当店を訪ねて来られ、被災地でボランティア活動をされた話などを楽しそうになさっていた。その時、福島の日本酒をお土産に頂いた。お酒の好きな方だった。「元気だったあの人が・・・」と思うととても信じられない。

また、商売がらみの話をすると、当店は「喪中ハガキ」の印刷を年賀状のそれと平行して行っている。文章や体裁を顧客の要望や慣習に添って整え印刷する訳だが、自然と文面とその意味するところがこちらの目と頭に入ってくる。喪中ハガキの中で亡くなったとされる方々。それは決してお年寄りばかりではない。親、兄弟、姉妹、子女、伴侶・・・。鬼籍に入る方は、老若男女、順逆、実に様々なのである。むろん印刷屋の私ごときが容喙する話ではない。だからいつも心の中で手を合わせてご冥福をお祈りするよう心がけている。

この世界に、この人生に、確実なものなど一つもない。あるとすればそれは、時々刻々と「死が近づいて来ている」という事実だけである。仏教徒の端くれである私は、ここで釈尊の次の言葉を思い出す。

「学ぶこと少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが知恵は増えない。」(「ダンマパダ」、中村元訳)

今年一年を振り返って、自分が何を学び得たか、何を学ぼうと努めたか・・・を、指折り数えてみようとするが、忸怩たる思いを禁じ得ない。「牛のように老いる」のは嫌だ。学ばなければならない。怠けている暇はない・・・。

皆様、今年一年、誠に有り難うございました。皆様が、明るく健やかに、そして希望に満ちて、新たな歳を迎えられることを願ってやみません。

酒とタバコをやめて、今日で180日になった。正直、まだ半年か・・・、という気持ちである。止めた日数をこうして指折り数えていること自体、まだ完全に酒とタバコの呪縛から解放されていない証拠なんだなあ・・・、と思う。

最初は、酒(禁酒)と煙草(禁煙)は、僕にとって、ほぼ同等の「重み」であった。だが日が経つにつれて、自分にとって、他人にとって、社会にとって、人間にとって、「酒こそが問題である」ということが徐々に明らかになってきた。そう、酒こそが問題なのだ。酒に比べたらタバコなどは、太陽に対する月、海に対する水たまり、象に対する蟻(あり)のようなモノである。影響力、すなわち人間に対する害毒は比較にならない。

その害毒を一言で言えば、人間が社会で生きていく上で最も重要かつ不可欠なもの、一瞬たりとも手放してはならないもの、すなわち「理性」を酒は喪失せしめるということに尽きる。

今日も一体、どれだけ沢山の「涙」が、この「酒」という「キチガイ水」を巡って流されているのか、想像も出来ない位なのである。悔恨の涙、絶望の涙、悲嘆の涙・・・・。しかも、涙を流しているのは飲酒者当人だけではない。その周囲の人々、特に家族を苦しめ、ついには崩壊させてしまうのが酒なのである。

最近では、NHKの森本健成アナウンサーが、酒に酔って帰宅途中、電車内で女性の体を触ったとして、強制わいせつ容疑で逮捕されたことが大きな話題となっている。全国ネットの番組に出る有名なアナウンサーなので、驚きや非難の声、あるいは様々な噂や憶測が巷(ちまた)やweb上を飛び交っている。僕がザッとそれらに目を通したところ、事の本質をしっかりと把捉した議論は、いつものことながら殆ど行われていない。冤罪だの冤罪でないの、紅白歌合戦はどうなるだの、枝葉末節的な噂話ばかり。マスコミ・マスメディアからしてそうなのだからあきれるよりほか無い。

この森本事件の本質は何か? 「当時のことは酒に酔っていて覚えていないが、被害者には大変申し訳ないことをしたと思う。」との同容疑者のコメントが伝えられているが、ここにこそ、問題の本質があるのである。すなわち、まぎれもない「酒害」の問題なのだ。犯行時に酒に酔って「記憶がない」ということは、「理性」を喪失していたということである。何ということだろう。これではたとえ冤罪でもそれを証明する手だてが無いし、その時何をしでかしてもおかしくない状態だったと、本人が認めているに等しいのである。同氏のように普段真面目で誠実そうな人が・・・。立派なキャリアをこれまで積み上げてきて、妻子のある人が・・・。たかが酒で・・・。実に惜しいことだ。情けないことだ。僕に言わせれば「記憶がない」と言っている時点でアウト。話にならない。

まともな大人は家から一歩外に出たら、一瞬・一秒たりとも「記憶の無い」時間、「理性を喪失した」時間、すなわち「自分の行動に責任のとれない」時間をつくってはならないはずだ。そのような人物は、周囲から見れば「危険人物」に他ならない。酒で理性や記憶の飛ぶ人は、即刻断酒すべきである。僕だったら怖くて酒などとても飲めないだろう。酒を飲んだ翌朝、犯罪の容疑者になっていたり、留置所に入っていたなんてことは、まっぴら御免だ。

だが・・・。草なぎ事件、海老蔵事件同様、今回も「酒害」については見過ごされてしまう雲行きだ。明らかに世人は「酒」を甘く見すぎている。酒に大甘(おおあま)の日本社会。例えばみのもんたは、この件につき次のようにコメントしている。

「僕も酒飲みですが『酒に酔っていた』と書かれるのは非常につらい。お酒って(本来は)そういうものじゃないんですよ!」(11月16日、TBS「みのもんたの朝ズバッ!」)

いつも思うが、この人物は、実に「分かりやすい」。無責任な放言が大半で、床屋談義の範疇を出ない。今回は何と、自分が酒を飲むから酒を擁護している(笑) 公私混同、自分の立場も問題の本質も何も見えていない。いや本当は分かっているのだろうが隠している。これほど明らかな「酒害」の問題を、あえて無視するこのような人物が、他方で政治や社会を語ること自体、間違っているし滑稽なのである。この男は昔から好きになれない。

だが、みのもんたなどはどうでも良い。問題なのは酒である。?_(・ω・`)ココ重要! 今日は、180日記念として、改めてこのことを強調しておきたい。

禁酒・禁煙して今日で150日が経過しました。区切りなので何か書いておきたいと思います。さて何にしよう・・・。

最初に言っておきますが、酒と煙草を止めたからと言って、立派な人になれるわけではありません。もしそれだけで立派な人になれるのだったら、子供はみんな立派な人になってしまいます(笑) そうそう、ヒトラーは、酒もタバコもやらず、おまけにベジタリアンでした。ナチスの禁煙政策は有名です。世の中には酒もタバコもやらない「悪人」は大勢いるし、逆に、酒・タバコを嗜む「善人」も多いのです。人が禁酒・禁煙を決意し、それを実行するのは、万が一の過失や悪、不慮の事故や病気などを避けるため。つまり積極的・直接的に利益や「善」を求める行為ではなく、不利益や「不善」を回避するためのそれなのです。だから、それ自体、他人や自分を裨益する「良い行為」ではないのですから、そんなに自慢するものでもないと思うのです。(僕のブログに最近このテーマが頻繁に登場するのも自慢の意図はないつもり。禁酒・禁煙の辛さを紛らすためなのです、ハイ・笑)

そのことをお断りした上で、今、酒・タバコに関して思うこと・・・。

世の人々は酒とタバコを比較した時の両者のバランスにおいて、あやまった感覚に陥っているような気がしてなりません。タバコに厳しすぎる、あるいは、酒に甘すぎる、と思いませんか? たとえるならば、酒は太陽、煙草は月です。人や社会に与える「影響」は、前者の方が格段に大きい。「影響」とはもちろん「悪い影響」も含まれます。タバコで殺人事件は起きません。死亡事故も起こりません。刑務所や精神病院に入れられることもありません。ですが、酒はそれらの引き金・原因となり得ますし、実際にこれまでも、なってきました。

タバコを吸っても人は理性的でいられる。酒は理性を喪失せしめる。ここのポイントはきわめて重要なので強調しておきたいと思います。ですが日本人および日本の社会はこの「事実」をどうやら隠蔽したがっている、あるいはこの「事実」から目を背けたがっているように見えます・・・。煙草の悪口は今では皆言いたい放題・・・、でも、酒に対してはあれこれ理由を付けて擁護に回る人が多いように見受けます。ビール会社、酒造メーカーのイメージ戦略がよほど上手いのでしょうか。テレビを観ても分かるように、確かに広告宣伝費は各社莫大なものを使っているようです。「般若湯」「玉箒」「百薬の長」・・・これは酒を美化した異名です。また、「ほどほどに」「適度に」たしなむもの、楽しむものは、酒であってタバコではないようです。かように、日本ほど酒に甘い社会は他にないのです。

僕について言えば、禁酒・禁煙開始から150日が経過して、タバコについては殆ど何も感慨はありません。ただ止められて良かったというほかありません。ですが、酒の方は、正直ホッとしています。これが止められたのは実にデカい!! 人生の航路が変わった。人生に待ち受ける様々な陥穽を回避できる可能性が格段に高くなった。決して大げさでなくそう思います。しかも他人から強制される前に、つまり人に迷惑をかけたり依存症になる前に、自分の力で、自分の理性で、自分の意志で止めてやった!! がはは!やったぜ!・・・なんて、そこまでは言うつもりはないですけど・・・(笑)、止めるタイミングや偶然もあったと思うしなあ・・・(笑)、でも150日間我慢できた自分自身に今は大変満足しています。

でも150日なんてまだ序の口です。これからも禁酒・禁煙を続けます!

郵便局で11月1日より、年賀ハガキが発売開始になります。早いものでもうそんな時期。時間の経つのは早いものですね。

さて今回は、例年通り、年賀状&喪中はがき印刷のご案内をさせていただきます(^—^) 

来年(2013年)は平成25年、干支は癸巳(みずのとみ)。(因みに明治146年、大正102年、昭和88年にあたるそうです。「昭和は遠くなりにけり」という感慨ひとしおです) 当店では来年の年賀状デザインを150?200種類ほどご用意して、皆様のご来店をお待ち申し上げております。デザインや文面を店頭の色々なサンプルから選んで頂けます。併せて、「喪中はがき」の方の印刷も承っております。こちらも文例、デザインをご用意しております。年賀状も喪中はがきも「カラー印刷」「白黒印刷」どちらでも可能です。

さて、ここまでは、去年・一昨年と変わらない内容ですが、ここからは違います。当店は古物商営業の許可を頂き今年9月より新たに、「いたばし切手買取・販売センター」を店内に併設しております。これによって、年賀ハガキの買取と販売を行えるようになりました。

余った年賀状は買い取らせて頂きます!また、額面以下での販売も致します!まだ具体的な値付けはしておりませんが、是非この機会にご利用下さい。年賀状の印刷と葉書の割引でのご提供が同時に出来るようになり、コンビニなど他店に比べ、サービス面において、さらに優位に立てたのではないかと自負しております。

買い取り価格は、当面、額面50円の葉書一枚を、40円(税込)で買い取らせて頂きます。

2013年・平成25年巳歳年賀状(カラー)

2013年・平成25年巳歳年賀状(モノクロ)

詳しくは店のサイトの以下のページをご覧下さい。

http://www.stamprint.com/nenga_mochu.html

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〒174-0063
東京都板橋区前野町4-49-2-101
スタンプリント(いたばし切手買取・販売センター)
電話03-5392-6365
FAX03-5392-6078

つい最近までタバコも酒もやっていました。「やっていた」というべきか「たしなんでいた」というべきか・・・、「おぼれていた」とまではいかなくても、明らかにどこかで「依存」していたような気がします。

「酒も煙草もやらない」という人を見ると、「つまらないヤツ」「何が楽しみで生きているんだ」「人生の機微を理解していない男だ」などと、声に出しては言わなくとも、心の中で思う酒飲みは多いはずです。僕もそのような考え方をしがちだったことは否定しません。

今から思うと何という身勝手な、自分本位の考え方なのでしょうね。(そのことに気が付けただけでも禁酒・禁煙をやって本当に良かったと思います)

じゃ、僕から逆に質問してもいいですか。「あなたは酒を飲める人が相手だったら誰とでも腹を割って話すことができ、肝胆相照らす仲になれましたか?酒で良い友達が沢山出来ましたか?」と。 いいえ、そんなことは無いはずです。自分の経験から断言できます。

人間とはうまく出来たもので、酒や煙草という楽しみを自分から取り上げても、新たな楽しみをどこからかちゃんと見つけてくるものなんですよ。僕もいくつか代替えの楽しみを既に見つけています。

季節は秋。毎日仕事場に自転車で出勤していますが、秋の気配が日々濃厚になってゆくのを感じます。爽やかな秋の風を受けているとどこかしこに「秋の匂い」を感じます。禁酒・禁煙して最近明らかに感覚が鋭敏になってきました。「収穫の秋」にふさわしく自分の気力も充実しています。朝はその「力」を一番感じる時間です。

鉛の入ったような重い頭と、磨りガラスのように濁った視界で、ハアハアと息を切らしながら、イヤイヤ仕事に出かけるような朝はもう願い下げです。酒も煙草も僕にはもう不要です。

ある人が面白いことを書いていました。「酒の楽しみは未来の自分に対する借金のようなものである。必ず将来そのツケを払わなければならない」と。その通りだと思います。例えば、子供が砂場で砂遊びをして、砂山を作ったとします。すると山を作った分だけ必ずどこかに谷も出来る。酒で得られる喜びとは、所詮そんなものなんだと思います。山が高ければ谷も深い。アルコールが原因で鬱病になってしまう人もいますよね。

僕は「山」を作ることを否定しているのではありません。その「作り方」が問題だと思うのです。「谷」の出来ない「山の作り方」もきっとあるに違いない。そう思うのです。

僕がウォーキングを日課にしていることは、以前、このブログでも書きました。歩くのは昼よりももっぱら夜。夜のウォーキングは、周囲の景色があまり目に入ってこないので自分の「心」に意識を集中でき、昼のウォーキングよりも、自分は好んでいます。普段、なかなか自分の心と対話するという時間がとれないので、今や貴重な時間となっています。・・・そんなことを以前このブログに書きました。

でも自分の心に意識を集中するとは言っても、夜の一人歩きですから、安全上、周囲に気を配る必要も勿論あります。色々な人とすれ違います。僕の歩く時間帯が午後9時?午前0時ごろが多いので、帰宅途中のサラリーマンやOL、僕同様、ウォーキングやジョギングをする人などもよく見かけます。

さて、僕がウォーキングを始めてからずっと気になっていたこと、不思議に思っていたことがあります。それは、夜の街路で見かける人、すれ違う人の中で女性、特に若い女性が、携帯電話をしながら歩いている確率が非常に高いことです。先日ふとそのことに関して或ることに思い至りました。彼女たちは防犯上の理由、もしくは夜道を心細く思って電話を誰かとしているのではないか。あるいは彼女たちの何割かは電話をしていないのかもしれない、これも同様の理由から、話をしているふりをしているのではないか、ということを。

確かに体格の良い?僕のような人間でも、夜歩いているときは、怖いこと、不気味なこと、驚くことがあります。突然暗がりから人が現れたりすると「ギョッ!」と驚いたりします(笑) コンビニの前に集団でたむろしている若者たちも非常に威圧感があります(笑)。出来れば避けて通りたい。最近は色々と物騒な事件が多いので、女性ならばなおさら怖い思いをしているに違いありません。暗闇は人の恐怖をかき立てます。

先日こんなことがありました。夜10時頃、いつもどおり僕が歩いていると、80メートル位先のこれから僕が通過するであろう路上に、不審な人物の影が・・・。どのように「不審」だったか敢えてここでは申しませんが、一見していかにもそれと分かる程度の「不審」具合(笑)でした。当然、僕は進路変更しました。その時は、その「不審者」を避け、道路を横断して対面の舗道を迂回するように歩きました。

それから帰宅するまでのウォーキングの間、私は今起こった出来事、それは大した出来事ではないのかも知れませんが、何しろ先述したように僕の場合「思考ウォーキング」を心がけているものですから(笑)、あれこれと考えを巡らせたのです。そう、その時は「差別」ということについてあれこれと考えました。

皆さんはどうお考えでしょうか? 僕が夜間ウォーキングの途中、その「挙動不審」の人物を手前で避けたこと。危ないと「決めつけた」こと。これは「差別」でしょうか?「人を見た目だけで判断してはいけない!」と非難されるべき行為なのでしょうか?

いいえ、僕はそうは思いません。これは「差別」ではありません。なぜなら僕はこの人の人柄を知らないからです。この人物に関する情報が無い以上、僕は「見てくれ」「外見」で判断するほか無いのです。自分の安全を守るためにこれは必要な処置なのです。自分の生命を守ること、危険を避けること、これは人間として誰もが本能的に行う行為です。0.01%の危険を0.001%にする、実際はそれくらいのことかも知れません。しかしこれを日々、刻々、瞬間瞬間で繰り返すことにより、人は自分の身を様々な危険から守っているのです。

近年、「差別」ということを否定するのに急なあまり、この人間にとって最も大切な自己保存の行動にさえ、文句を付ける連中がいます。「人を外見やその人の生まれもった属性、所属する国や団体、出自や性別等で判断してはいけない」と。しかし、これは、あくまで「その人の性格や人となりを知っている場合は」という付帯事項を付けなければならない場合が多いのです。

逆にその人間と面識がない場合は、そういう外形的なことで判断せざるを得ません。そうするべき場合もあるのです。例えば、先ほどの話に戻せば、若い女性が暗い夜道の一人歩きで、見知らぬ人とすれ違う場合、相手が男か女か、年齢は、背丈は、身なりは?、といった外形的・外面的な情報に基づいて、どの程度警戒すべきかを決めることは必要なことなのです。これは決して「差別」として否定される行為ではありません。

現代の日本のマスコミ・マスメディア、教育界などの論調には、このあたりの「差別」の事情に関して、少々混乱が見られるような気がしてなりません。何を「差別」とし何を「差別」とするべきでないか、このあたりのことに関してもう少しキチンと議論と整理がなされるべきでしょう。

しかしこんなことを考えながら黙々と夜道を歩いている僕はやはり変なのかも・・・(笑) 不審者として道を避けられても仕方がないかも知れません(笑)

【付記】言うまでもありませんが、僕も差別は良くないことと考えておりますし、差別主義者は嫌いです。差別とはどういうことを言うのか。「或る人物の人となりや能力、人格を知ることが出来る立場・位置・距離関係にありながら、なおも、その人物の変更しがたい属性や生来の属性(出自・国籍・身分・性別・容貌等)の方を重んじること」、とでも定義できるのではないでしょうか。

それにしても酒というのは、面白いモノですね。何が面白いって? だって、どんなことでも、酒を飲む「理由」になるから・・・。

「今日はすごく嬉しいことがあった。よし、飲むぞ!」

「会社で上司にこっぴどく叱られた。もうやってらんねー。今夜は飲まずにいられるか!」

「今日は亡友の三回忌。故人をしのんで飲もう!」・・・などなど。

それから、さして「理由」が無くても飲みますね。かつての僕のように(笑) 今日はまっすぐ帰っても何だから、途中で一杯ひっかけるかぁ・・・、なんて(笑)

要するに飲兵衛は、「理由」があっても「理由」が無くても酒を飲むんです。喜怒哀楽、花鳥風月、風雨雷雪・・・、あらゆることが飲酒の切っ掛けになります。「無」でさえも(笑) ゼロを発見したのはインド人、仏教で「空(くう)」の思想といったら龍樹と相場が決まっておりますが、いや、もしかしたら飲兵衛が一番先にそれらを発見したのかも知れませんよ・・・(笑)

同時に、そのことが「禁酒」を難しくています。だって、確固とした「理由」があれば、その「理由」を何とかすれば、酒は止められるはずですから。このあたりが酒の面白いところであり、或る意味、人間的なところでもあります。酒は生活と不可分、生活の一部になっている。

「たばこ」はその点、もっと機械的というか無機質的いうか、非情緒的な嗜好品です。嬉しいこと、悲しいこと、あるいは誰か故人を偲んで煙草を吸ったりは、あまり想像できませんネ。

そう考えると、やはりタバコより酒の方が、止めるのは難しいのかも知れません。酒の方がタバコよりも数段、文化的で、情緒的な嗜好品のように感じます。あっ、そうそう、「文学的」という言い方も出来るかも知れません。李白や杜甫の詩は、酒を抜きには語れません。日本にもかつてお酒の好きな文学者が沢山いました。

そこでふと思い出しましたが、新宿の百人町に「くろがね」という料理屋さんがありました。長く続いた店でしたが、今年の5月にお店を畳んでしまいました。何度か人に連れていってもらったお店ですが、井伏鱒二、小沼丹などの文学者がかつて常連だったお店です。僕も何年か前、高名な或る老大家が来店されていた時に偶々居合わせたことがありました。僕の行った頃も文学系の研究者や出版社の編集者がよく出入りしているように見受けました。こういう酒には今でも少し惹かれますね。

小料理屋・居酒屋というのは、うちの近所にも長いところはありますが、なかなか50年は続かないようです。35年、40年といったところで店を畳むところが多いように見受けます。(これは勿論最長の部類で、短いところだと数年で閉めてしまいます) 店主の高齢化や来客の減少などが背景にあるようですが、飲まなくなった今でも、かつて自分が行った店の、そういう報に接すると、寂しい気持ちになります。

酒は酒だけを楽しむのではなくて、酒を提供してくれる「お店」、あるいは店員や他の客といった「」との関係性において、より一層複雑で深い楽しみ方が出来るという点でも、他の嗜好品とは一線を画しているように感じます。酒はやはり面白いものだと思います。

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