2009年よりついに始まった「裁判員制度」。「裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民の信頼向上につながる」というのが制度導入の目的だそうだが、出来れば裁判所の門を一生くぐらないで済むならばそれが一番幸せだと思っている私である、裁判所が「身近」になって欲しいなどと端から思っていない。第一、国民にとって「裁判が身近」である好例がアメリカのような「訴訟社会」ではないのか?
「裁判が身近」になることがもし本当に必要だと考えるのなら、国民に同制度のような「義務」を課すだけではなく、まずは法曹界から国民の側に歩み寄り、もっと存在感を示して欲しいと思う。皆さんは、日本の歴代の裁判官の名前を何人言えますか? 恥ずかしながら私はつい最近まで、児島惟謙、大岡越前?、遠山の金さん??で止まってしまっていた。(笑)(これはちと恥ずかしい)私ほどではないにせよ、世の一般の人で10人どころか5人の名を挙げられる人も稀ではなかろうか。それくらい裁判官の顔は国民に見えないし、影が薄いのだ。
さてここで戦前・戦後に活躍した我が国の名裁判官を一人紹介させていただきたい。大審院判事や司法次官等を務めるかたわら、随筆家や演劇批評家としても名の知られた三宅正太郎(みやけ・まさたろう)である。彼の随筆を幾編か読めば、法律・司法問題のみならず、人生万般に亙るハッとするような含蓄のある言葉に出くわす。「裁判には『さび』と『うるおい』がなければならない」……などと三宅は言う。何!裁判に「さび」と「うるおい」だって!?茶道でもあるまいし…、とあなたは驚くだろう。しかし他の編を読めば、それはどうやら「事件を人間性まで掘り下げ、事件そのものよりも、事件の裏にある人間性の動きで事件を知る」ことだと知れる。
一方三宅は「裁判」の第一の目的を「処罰」ではなく「更正」ということにおいていた。「裁判は被告人を良くするためのものである。その人を良くするためのあらゆる努力は法の目的に一致する」と言い切る。では、「裁判員制度」というものを被告人の立場になって考えてみると、どうだろう。「裁判を身近にする」という名目で「くじ」によって選ばれた「素人さん」たち(その中には私のような不承不承の輩もいるかもしれない)に「有罪か無罪かの判断」と、有罪の場合の「量刑の判断」をされることが、果たして被告人の目にはどう映るだろうか。「更正」ということにプラスになるとはあまり考えられない。
もし皆さんがラッキーにも(あるいは不運にも)、「裁判員」に選ばれた暁には、六法全書をにわか勉強するよりも、三宅の主著『裁判の書』を読まれることをお勧めしたい。本書には「人を裁くこと」がいかに難しいことで、どれほどの「覚悟」が必要かということが文学的・哲学的・歴史的に深く考察され、司法における本質的な問題が平易に説かれているからである。もし三宅のような存在感のある判事が現代に現われたなら、もっと国民は裁判を「身近」に感じられるだろう。「裁判官は人を裁く前にまず己が裁かれるのである」との信念から、心を平静に保つため毎朝欠かさず読経し、法廷には必ず褌(ふんどし)を身につけて臨んだという彼の「覚悟」を思う時、私にはとても「人を裁く」真似事など出来ないと感じる。私が「裁判員制度」にいまだに懐疑的な所以である。

三宅正太郎(みやけまさたろう)明治二十年東京都生まれ。明治四十四年東大独法科卒業、大正二年判事となり、司法省参事官兼外務書記官、司法大臣官房秘書課長、大審院判事、札幌、長崎控訴院長を経て、昭和十五年司法次官、同十六年大審院部長、同二十年大阪控訴院長、同二十一年退職のち、弁護士、国会議員。昭和二十四年逝去。著書『裁判の書』『法官餘談』『嘘の行方』『雨後』等。