佐賀というと、あるお笑いタレント(兼歌手)のせいもあり、最近はすっかり「田舎」のイメージが定着してしまったが、幕末期においては、西洋の文物をいち早く取り入れ、多くの優れた人物を輩出し、時代のさきがけとなった先進的な藩の一つであった。西洋式アームストロング砲や反射炉、蒸気船の製造を行った鍋島直正(閑叟)の藩政改革が、佐賀藩を雄藩の地位にまで押し上げたと言われている。
その佐賀に副島種臣(そえじま・たねおみ1828?1905)という人物がいた。幕末・明治期の英傑である。李鴻章が褒め称えた書道の達人、西郷隆盛が城山で斃れた時、「慎しみて勿死工夫(死なぬ工夫)をせよ」と最後に言いおくった人物、征韓論にやぶれて下野したかと思えば、「民撰議院設立建白書」を提出して議会政治の推進を主張した人物・・・、副島に関してそうした知識をお持ちの方も多いのではないだろうか。司馬遼太郎氏はその著『翔ぶが如く』の中で、副島を高く評価して、「明治政府は、優れた経綸家を二人しか所有していなかった。一人は西郷、一人は副島・・」ということを述べている。
副島の偉業は数多あるが、マリア・ルース号事件(1872年)のことは現代日本の外交の問題、それから人権の問題にも深く通じ、学ぶところ多いと思われるので特筆したい。維新後間もない明治5年、一つの問題が新政府に持ち上がった。横浜に停泊中のペルー船、マリア・ルース号に230余名もの清国人奴隷が監禁されていることが発覚したのである。拉致監禁・人身売買というこの破廉恥きわまりない行為に対して維新後間もない不安定期にあった政府は、国際紛争を恐れ、ひたすら及び腰であった。このまま黙って立ち去ってくれればいい・・というのがその本音であったであろう。しかし、時の外務卿・副島種臣は、それを断じて許さなかった。国際間の係争を恐れず、この奴隷船の船長を断固として裁判にかけ、堂々と清国奴隷を解放したのである。この副島の英断に対して、当時横浜在住の清国商人たちが、副島に贈った「指日高陞」という感謝文が今も残されている。(神奈川県立公文書館蔵)

今日の日本の外交を思うとき、副島の気概の一片でも残っていれば・・・と感じるのは、私だけではなかろう。

副島種臣

【写真】副島種臣肖像