平時には「昼行灯(ひるあんどん)」と渾名され、さえない人物だと周囲から見なされていた大石内蔵助だが、主君浅野長矩が江戸城松の廊下で刃傷沙汰に及び即日切腹を命じられ、主家お家断絶という不測の事態が起きるや、それ以降は人が変わったようになり、浪士たちの心を束ね、様々な困難を乗り越えて、二年足らずの後に見事主君の仇討ちの本懐を遂げた。(復仇は野蛮の遺風であり、感心すべき事ではないのかもしれない。だが、金銭のために節操を売る世の中にあっては、やはり何かしら強い感銘を受けるのである)

「昼行灯」と言えば、日本海海戦の東郷平八郎も山本権兵衛に引っ張り出されるまでは海軍内でそう呼ばれていたと聞いたことがある。優れたリーダーは、最も大きな困難が襲ってきた時、最も大きな力を発揮する。

「平時」に於いては、特に大きな組織の場合、リーダーはお飾り的意味合いが強くなる。凡庸なリーダーを戴いていてもその組織の活動や業務が何の支障もなく回ってゆく場合が多い。だが、「非常時」となれば話は別だ。リーダーの存在が最も必要とされ、その力量が問われることになるのが「非常時」なのだ。「非常時」のために存在するのがリーダであると言っても過言でないと、僕は日頃思っている。

大地震、大津波、そして収束する気配もない原発問題と、今の日本はまさに危機的な「非常時」であるが、時ここに及んで図らずも「リーダ失格」を露呈してしまった二人の人物がいる。言わずとしれた菅総理と東電の社長だ。両人とも表に殆ど姿を現さず、不安にさいなまれる国民(特に被災者)の心を真に安心させたり鼓舞したりするようなメッセージはいまだ何も伝わってこない。東電社長に至っては何と、高血圧と「めまい」でどこかに入院してしまった。これは何かの冗談か? 何と言うことだろう! 事情はどうであれ誠に残念な限りだ。

しかし僕はこの両人をあまり責める気にならない。なぜなら、リーダーシップは生まれつきのものである、背丈に高低があり容貌に美醜があるように、いまさら責めたって変わりようがないからだ。むしろ僕はこういう不適格者を選んでしまった「組織」の方を問題にしたいのだ。

人間の組織というのは、大は「国家」から小は街の中小企業まで、個人の人間と同様、強い「永続への本能」というべきものをもっている。そしてそのために最適な指導者が自然と選ばれるようにできている。まともなリーダーを選べないというのは、その組織自体が病んでいるか、「永続の本能」を放棄した末期的状態であるか・・・、いずれにしても、組織自体に非常に問題があると考えてよい。

東電のことはさておき、日本国という組織を考えてみるならば、民主党が政権をとった時、あるいはその後菅直人氏が総理に選ばれた時、普通の感覚を持つ多くの国民が「心細いな・・」と感じたはずである。実は、この感覚は非常に正しい感覚なのであり、組織を構成する成員であるところの我々、「社会的動物」たる我々が本能的・直感的に肌で感じ取ったものなのである。だが「平和ボケ」した我々は何とかなるだろう、と高をくくっていたが、何ともならない事態が起きてしまった訳だ。

今回、至る所で「想定外」という言葉が使われた。しかし「想定外」の事が起こるのはこの世の常だ。その万一の時のために優れた指導者を我々は必要とするのである。「想定外のことは起こらない」→「したがって優れた指導者はいらない」といった、信じられないような「平和ボケ」の中にあった我々日本国民だが、これを機に私自身も含めて、猛省をせねばならないのではないかと思う。