昔、小学校の国語の授業で「対義語」というものを習った。「成功」の反対は「失敗」、「拡大」の反対は「縮小」、具体⇔抽象、原因⇔結果、権利⇔義務・・・・、とまあこんな具合だ。

その対義語の中に、「自然」⇔「人工」というペアがあった。ずっとそういうものとして了解してこの歳まで暮らしてきたが、ここにきて、「自然」の反対が「人工」であるはずがないそうあってはならない、と思うに至った。

考えてみて欲しい、たくさんのアリがせっせと築いた蟻塚や、鳥が枝や泥を固めて作った巣を我々は自然と対置させたりしない。それらは自然の一部である。ではなぜ、人間の作ったものだけが、「自然」と一対一で対置されるほどの特別なものだと言えるのだろうか。ビルディングだって自動車だって、人間が自然界の素材を使って加工したものだ、長い年月を経ればまた土に還っていくべきものだ。

「自然」と「人工」は対義語です!、という考えには、人間の無知と傲慢さが潜んでいるのではないだろうか。むしろ「自然」は「人工」的なあらゆるものを包含する、と考えるのが東洋的であり、日本的であり、今の僕の考え方だ。

自然保護」とか「自然破壊」という言葉だってそうだ。人間があたかも自然を支配しコントロール出来るかのごとき、錯覚と傲慢。しかし、実際に支配されているのは我々人間の方だ。46億年という気も遠くなるような地球の歴史の中で、人類(ホモサピエンス)が出現したのは僅か数十万年前と言われている。人類が工業化と機械化によって自然を「破壊」したと夢想しても、その微々たるダメージと不均衡は、時間の経過と共に再び均衡を保って、何ごともなかったように地球はこの広大な宇宙の中で公転と自転を続けるだろう。何億年も、何十億年も・・・。その時人類が存在するかどうかは知らない。もしかしたら自分で自分の首を絞めるがごとき愚行を繰り返して、滅んでしまっているのかもしれない。だがそれは人類が自然そのものに対してダメージを与えたからではない、人類が住むのを許された自然の中の狭隘な一部分に対してダメージを与えたことによるのだ。犬小屋の中を汚す犬のように・・・。

最も身近な惑星であるところの地球でさえ、その大部分が我々にとって未知の世界である。表面の卵の殻のような地殻のごく一部でしか我々は居住したり活動することが出来ないし、ちょっと行って様子を見ることすら出来ない場所が沢山ある。高山然り、地底然り、海底然り。どこかで風が吹けば街が破壊される、ちょっと水面が波立てば何千人という人が死んでしまう・・・。このようにちっぽけで無力な人間が、「自然保護」だの「自然破壊」だの言うのは笑止である。自然は人間によって保護されたり、破壊されたりはしない。人間が自然によって、破壊されたり、生かされたりするだけだ。「自然との共存」、これまた笑止だ。「人間」は「自然」と一対一で対すべき資格も能力も持ち合わせてはいない。人類の存在の有無にかかわらず、自然はこれまでも存在したし、これからも存在し続ける。だが、人類の存続は自然の存在無くしてはあり得ない。「共存」ではなく一方的な「依存」・・・。

ちっぽけな、まるで塵(ちり)のごとくはかない人間の存在。だが、だからといって、自分や他人を塵のごとく軽く見ていいわけではない、扱っていいはずもない、どうでも良い、どうなっても良い、という訳にはいかない。自分があわれでちっぽけな存在であることを認識しつつ、いかに生き、いかに世に処してゆくかも考え続けなければならないのが、人間である。それが出来なければ世をはかなんで出家遁世するしかない。

この度、一人の女性の死が報じられた。はなかく、ちっぽけな人間の例に漏れず、定めであるところの「死」が彼女にも訪れた訳であるが、はかなく、ちっぽけであるが故に、また可憐で美しかった彼女がもうこの世にいないと思うと悲しさがこみ上げてくる、嗚呼。子供の頃大好きだったスーちゃん、心からご冥福をお祈りします!!