わが国のマスコミ・マスメディアは、「格差社会」などの話題にからめて、近ごろ頻繁に「弱者」という言葉を使う。しかし不思議と「強者」という言葉を使わない。本来、「弱者」とは相対的語彙、もしくは相対的立場なのであって、「強者」の存在が対置されていて始めて意味を持つ言葉であるはずである。救済されるべき「弱者」を論じるなら、「救済する」主体としての「強者」がどこの誰であるのかは、当然話頭に登らなければおかしい。しかし、マスコミ・マスメディアは、なぜか不思議なことにその肝心のことがらに関して言葉を濁すのが常である。

しかしそれは言葉を濁しているだけなのであって、「弱者の味方」を気取るマスコミ・マスメディアは、明らかに「強者」というものを常にイメージしており、後述する理由によりそれを表だって名指ししないだけなのである。

ではマスメディアにとっては、誰が「弱者」で誰が「強者」なのであろうか? 日頃テレビを見たり新聞を読んでいれば、それは自ずと明らかであるので、一例だが以下に列記してみたい。

【弱者】非政治家、被雇用者、中小企業およびそこに勤める人、非正規社員、消費者、低所得者、女性、子供・お年寄り・・・等々。

【強者】政治家、雇用者、大企業およびそこに勤める人、正社員、生産者、高額所得者、男性、壮齢の人・・・等々。

ここでは、上記区別の是非、およびマスメディアが常に「弱者」の味方を気取り、「強者」を叩きがちである、ということの妥当性についてはテーマではないから後段で少し触れるだけにとどめたい。

問題にしたいのは上述のように、マスメディアが常に「弱者」を盾に「強者」を批判するにもかかわらず、その「強者」が誰であるのか、「政府(行政)および政府(行政)関係者」「政治家」等の一部の例外を除き、名指しでの明言を避けるということである。それは「強者」という言葉を全く使わない、ということに端的に表れているのだが、日頃の報道に接していると、日本は「弱者」ばかりの住む国か?と見まごうばかりである。

商売柄、批判の対象たる「強者」を常に必要とするマスコミ・マスメディアは、「弱者」の歓心を買おうと媚びを売るのに余念がないが、しかし同時に、誰かを「強者」と名指しで批判して、その反感も買いたくないという訳だ。

一般論としては「弱きを助け強きを挫く」というのは慈愛や勇気に基づく立派な行為であろう。だが日本の多くのマスコミ・マスメディアは、そんな高い理念とは程遠い、実に姑息で卑怯なやり方で八方外交を展開しているにすぎないのである。「視聴率」や「販売部数」、すなわち「売らんがため」という理由もあるのかもしれないが、本質的に彼らは自分たちが何をやっているのか分かっていないのだ。

猫は、狼の群れの中では弱者であるが、ネズミの群れの中では強者である。この道理で我々もまた、時に「強者」であり時に「弱者」である訳だから、常にマスメディアが「弱者」の味方を気取る限り、時に批判される側に回ることを免れ得ない。その批判をわざと曖昧にぼかして、「皆が弱者」という、何とも陰鬱で異様な雰囲気を社会に蔓延させているのが、今のマスメディアの実態なのである。テレビを見れば、新聞を開けば、今日も彼らが全国津々浦々で「弱者捜し」に明け暮れている様子がうかがえるではないか。

「それでは強者はどこにいる?」 そう問いかけても彼らは言葉を濁してまともな答えは返ってこないだろう。幽霊の正体見たり枯れ尾花。実はそんな「強者」はどこにも存在しないのかもしれないのだ。(※注)

少しまとまりのない文章になってしまったが、私の言いたいことはこういうことだ。節操のない煽動屋である現代のマスコミ・マスメディアは、あたかも国民の中に固定的な「弱者」や「強者」が存在するかのごとき報道を常になしているが、それは間違っている。確かに「子ども」や「身障者」のように常に「弱者」として社会が庇護すべき対象も存在するにはする。しかしそれは例外なのであって、上述したように「強者」も「弱者」も相対的概念なのであるから、常に「強者」、常に「弱者」である人間など、どこにも存在しない。

さらにどこの国からどういう理由でいつ頃仕入れてきたのか知らないが(笑)、「弱者=善」「強者=悪」という硬直した亜流ヘブライズム・似非ヒューマニズムを基調に、世の中のあらゆる事象を安っぽい勧善懲悪の時代劇調にアレンジし、そこに道学者然としたいやらしいご高説を付け加えるのだから全く始末に悪い。

本質的な議論をすれば、男も女も、老いも若きも、すべからく人は常に「強者」を目指すべきではないのか。人は弱い、そんなことは言われなくても分かっている。だがその弱さを克服していく努力と過程そのものが「生きる」ということの主要な一部を構成しており、「他人」よりも強くありたいという以前に、昨日の「自分」より今日の「自分」を強く、そして明日の「自分」はもっと強く、と希いながら日々努めてゆくことが、生に意味を与え、生を溌剌たらしめるのではないのか。

広く世界を見渡してみれば、実は、誰に教わることもなく、人は皆このように生きているのであり、これが、鳥や花、魚や草木などありとあらゆる「命あるもの」の生きてゆく姿である。

このような人間の自然の営為に対して、「弱者」を盾に陰鬱な批判の眼差しをどこかしこに向けるマスコミ・マスメディアは、やはり何かが狂っているのであって、彼らの論説を一から十までまともに受け取っていたら、人間は結局「生の意味」を見失い自殺するしか選択肢がなくなるのではないか、とふと思ったりもする。

結局、マスコミ・マスメディア諸子は、日本の社会全体に謂われのない漠然とした「不遇感」と「嫉妬心」をかき立てる以外のことは殆ど何もしていないようにも見える。全く困った連中である。

(※注)「強者がいない」のならマスメディアが強者を名指ししないという批判はあたらないのでは、という疑問には以下のように答えたいと思う。彼ら(マスメディア)は、明確に「強者」をイメージし、かなり固定的にそれを設定している。彼らにとっては「強者はいる」のであって、上述したように「いなければ困る」のである。だが、日本のマスコミ・マスメディアが大好きな「弱者」論は、それに必須の反対概念たる「強者」を名指しした時点で脆くも崩壊してしまう砂上の楼閣である。名指しされた「強者」は言うだろう。「えっ、俺が強者だって。とんでもない。冗談は止めてくれ」