今夏の高校野球(第93回全国高校野球選手権)で準優勝を果たした青森の光星学院高校の部員3人が昨年12月に飲酒をしていたことが発覚し、問題になっている。大会前に発覚したのであれば「出場停止」等の処分が下されたのだろうが、大会は既に終了してしまっている。僕はそれほど高校野球を見る方ではないが、順位くらいは毎回気にしている。光星学院高校のような大活躍したチームの不祥事が大会終了後に発覚したことはこれまでにあまり記憶がない。地元の祝賀ムードも一気に吹き飛んでしまい、監督と部員たちは現在高野連の「処分」待ちの状態だという。

未成年の飲酒は良くない・・・、そんなことは分かりきっている。だが、僕が疑問に思うのは、高野連とはそんなに偉い組織なのか?、いったい何の権限があって高校球児や彼等が属するチームや学校の不祥事を「非難」したり「処分」を下したりしているのか?ということである。

普段部員たちは、部活動中は監督に、教室では教師に、そして家庭では親によって教育・指導されているはずである。その彼らが不祥事を犯したとなれば、当然、その責任の大半は監督や教師や親に帰せられてしかるべきである。(何しろ部員たちはまだ未成年であるのだから。)そして、今回のような不祥事を高校生が犯した場合、それを「処分」したり、正してやることが出来るのもまた、普段彼らと身近に接している監督や教師や親なのであって、それ以外には存在しないのである。一体、どこに高野連とやらが首をつっこむ余地があるというのだろう? 普段、彼らの教育に対して何の努力も腐心もしていない連中が、である。

たとえその「処分」とやらが、高野連の管轄する「高校野球」の出場・不出場に関することがらに限られていても、未成年の学童に大きな心理的影響を及ぼす「処分」を、日常彼らの訓育に携わっていない第三者が下すべきではない、というのが僕の意見だ。高校球児にとって甲子園への夢が断たれるということがどれだけ重い処分であるかは、ちょっと想像してみれば誰でも分かることだ。あまりにも重すぎる処分である。この三人のために大勢の部員の努力が水泡に帰するのだ。部員達も辛いだろうが、この三人にとっても非常に辛かろう。もし10年後、20年後に野球部の同窓会を開いたら、この三名は出席できるだろうか?・・・そんなことまで僕は考えてしまう。自分だったら多分出席できまい。こんな一生引きずるような重い「処分」を下したら、そのあとの心のケアも大切になるはずだが、高野連はそんなことはあずかり知らないのである。さらに、もしこの三人のうちで、メンタルが弱い生徒がいて何かとんでもないことが起こったらどうするのか?これも高野連はあずかり知らず、なのである。

一部の部員が今回のような不祥事を犯すと、「連帯責任」ということで、真面目に頑張っているチームメイトたちもそのとばっちりを食う。先輩たちも後輩たちもである。さながら江戸時代の「五人組」ではないか。無理矢理飲ませたとか、知っていて見て見ぬふりをしたのならいざ知らず、放課後か帰省先かで三人の不良部員がこっそり飲酒したからと言って、それと関わりのない他の部員までがどうして懲罰的な処分をこうむる必要があるのだろうか? 理不尽である。

「連帯責任」とか「五人組」の制度というものは本来、処罰の「公正」さを犠牲にして、「抑止力」の強化を狙った制度であり、為政者や指導者に都合の良いものである。どうしてこんな江戸時代の遺物のような制度を現代の、しかも高校生達に適用する必要があるのか? 全く僕には理解できない。

ここで、二つの「原則」を我々は再認識するべきである。?人は本来、自分が犯してもいない罪で罰せられたり、不利益をこうむってはならない。? 児童生徒に教育的「処分」を下すことが出来るのは、普段よりその訓育に責任をもって携わっている者(親や教師)だけである。・・・・という、2点だ。

今回の場合は、飲酒した生徒の通う学校が、あらかじめ決められた校則に従って、「停学」なり「叱責」なりにすれば足りる。もし大会の前に発覚したのあれば甲子園にはその三名だけ連れて行かなければ良いのである。「処分」を下すのは簡単である、だが大切なのはその後の処置である。如何にこの不良3人組を今後善導してゆくか・・・、これはいつも彼らを見守っている親や教師にしかできない。高野連の首をつっこむ話ではないのである。第一、高野連は野球大会を運営する組織なのであって、教育機関ではない。教育機関でない者がどうして、善・悪の判断をして良いものか!

高野連は、高校野球で甲子園を目指す全国の高等学校、そして監督、球児達に対して、さながら江戸幕府のような統制を行っているのではないか?

時代はもはや、江戸時代の農民のような自他の区別の曖昧な集団主義的、没個性的な人間を求めてはいない。確固とした自己を確立し、自立的かつ自律的に万事に主体的に取り組むような人間が求められている。「自分のしたこと」と「他人のしたこと」をキチンと区別し、その責任の所在について的確な判断ができるということは、「個」として生きようとする人間の身につけるべきイロハのイではないか。次代を担う高校生達にはそんな人間になって欲しいと僕は希っている。だが高野連の考え方は全く違うようだ。高野連は時代錯誤も甚だしい、と思うのだが・・・。

追記

この記事を書いたすぐ後に、今回の光星学院高校の不祥事に対する「処分」が高野連から発表された。処分の内容は、準優勝は取り消さず、「厳重注意」。問題を起こした三名はすでに三年生であり、来期の新チームに対する処分はないとのこと。まあ、予想された中では一番軽くて、ある意味妥当な「処分」であると言えなくもない。またこの件に関して高野連の西岡宏堂審議委員長は、「未成年の飲酒が違法という意識が欠けているのは遺憾」とコメントしている。

だが、僕に言わせれば、高野連がこのような「言わずもがな」の談話を発表したり、よけいなことに首をつっこむことは越権行為であり、こちらの方こそ「遺憾」なのである。