「永遠」について、私たちは何も知らないし、我々の貧弱な五感ではそれについて何も感知することはできない。だが、なまじ「永遠」という言葉があるために、あれこれとそれについて思いを巡らすことがある。「死」についても同様に、私たちは何も知らない。思考している人はまだ死んでいないし、既に死んだ人は何も語らない。だが、「死」という言葉があるために、それについてあれこれと考えたり、思い悩んだり、怖れたりする。

「無いもの」もしくは「有るかどうか分からないもの」、「知覚できないもの」でも、「言葉」があるために「有る」と前提されて何らかの議論が進んだり、「有る」かの如く世間で通用したりする。「死」も「永遠」も実態はよく分からないが、とりあえずX(エックス)とおいておこうという方程式の中の「記号」の如きものなのか?

また、これとは逆のケースもあるに違いない。本当は「有るもの」なのに、それを指し示す言葉がないために、「無い」と前提されたり、人々から顧慮されなかったり、無視されたりするものが・・・。

このように私たちの思考は、明らかに、言葉によって強く影響され、拘束され、呪縛されている。思考は言葉によってなされるのだから、それは当然といえば当然なのであるが、注目すべきことは、「AはBである」という命題のかたちをとらずとも、A、B、・・・という単体、すなわち単語のかたちで、言葉は既にそういう「力」を持っていることだ(後述)。このことに関してあれこれ考えていくと僕は一つの疑問に突き当たる。言葉の持つある種の「欠陥」や「限界」は、思考の「欠陥」や「限界」、さらには「人間の限界」にまで繋がっていくと考えていいのだろうか?・・・という疑問である。

例えば、むかし僕がまだ子どもの頃は、日本では「ストレス」という言葉が一般的には殆ど使われていなかった。ということは、当時は「ストレス」自体が存在していなかったのだろうか?それとも「ストレス」を感じるという状態は当時もあって、ただ当時の人はそれを言い表す術(すべ)を知らなかっただけなのだろうか?

昔のサラリーマンは、現在我々が「ストレスが溜まった」と感じるところを、「今日はやけに気疲れしたなあ・・・」と言って、家で晩酌して朝まで寝たら、翌朝はすっかり直ってしまっていた、ということもあり得るかもしれない。「ストレス」という言葉がストレスを作り出したという側面も幾ばくかはあるのではないか。

「永遠」とか「死」と云うことと同じように、我々は「ストレス」の実態はよく分からないが「ストレス」なるものが存在するものとして生活している。現代人にとってストレスは、仕事などをしていると「溜まるもの」であり、時々レジャーなどで「発散せねばならないもの」であり、あまり「歓迎されないもの」である。その詳細な定義付けは精神科医や心理学者が行っているが、我々はその是非を問わずに、知らず知らずのうちに採用して使用している。「ストレス」という言葉を採用するということは、「ストレスの定義」を採用するに等しい。いったんそれを採用したら、我々は日々「ストレス」に晒され、時々それを「発散」させねばならなくなるのは自明の理だ。「気疲れ」であれば、飲んで寝て一日で直ったものを・・・(笑)

第一、誰でもが身に覚えのある「あの状態」を、「ストレスが溜まる」と表現するのが適正なのかどうなのか? 他にもっと適切な言葉とその定義付けがあるかもしれないではないか? 言葉の持つある種の「欠陥」や「限界」は、思考の「欠陥」や「限界」に繋がっていくのか?、と先ほど疑問を呈したが、この事例は「思考」からさらに、我々の「健康」や「精神衛生」にまで影響を及ぼす事例である・・・。どういうことになっているのか?

まあ、ストレスの話はあくまでも「例」であるから、このあたりで止めておく。このように、我々は言葉の是非を考えずに、世間に通用していると云うことで、沢山の言葉を採り入れて使用している。殊に最近のように目まぐるしく変化してゆく時代にあっては、新しい言葉がどんどん生まれて流通する。これらを一つ一つ検証し、使用して良いかどうか判断し、しかる後に自らの語彙に採り入れるというような作業は、時間的にも労力的にもほとんど不可能に近い。たとえそれが可能であって、頭の固い人物が新語の採用を全て拒否し続けて、「拙者は美濃の国に出づる天丸でござる」と江戸言葉で話したところで、世間から笑われたりコミュニケーションの不都合から生活に支障をきたして、それに堪えられなくなって止めてしまうのが関の山だ。世間は決してそういう人間を許容しないだろう。つまるところ、我々は、現代的語彙を多かれ少なかれ使っている以上、「時代」の影響から免れることは出来ないということだ。

だが思考の健全性や良好な「精神衛生」を保つために(笑)、採用を拒否すべき言葉は拒否すべきである。例えば民主党あたりが最近頻度高く使う「可視化」などという言葉は、僕にとってはどうでもいい言葉であるが、それを採用し使用する人間には、使用するだけの何らかの「理由」があるということだ。先ず「可視化」に関する問題ありき、ではなく、「可視化」という言葉が問題を惹起し、その問題が起こることによって「利」を得る人間が存在するという、ただそれだけのことだ。こういう類の、採用を拒否していい言葉、拒否すべき言葉については、遠慮なく拒否すべきだと思う。何が「可視化」だ、お前たちは透明人間か?、下らない。世の中には「残念な人たち」しか使わない「残念な語彙」というものが確かに存在するようだ。(笑)

話が少々脇に逸れた。それにしても「言葉」とは不思議なものだ。我々は頭と心の中に、「言葉」という道具を沢山持っている。職人の工具箱に、ペンチやドライバー、ニッパー、スパナー、小物類が沢山並んでいるように・・・。

だがこの「言葉」という道具は、一つ一つに主張(定義)を含んでいる。一つ一つが「物言う」道具だ。道具箱に入れてそれを使う限りは、その主張に耳を傾けなければ、上手く扱えない。ただ、職人の道具箱と共通するのは、その中にどんな工具が並んでいるかを見れば、その使用者の性格や腕前、造るものの善し悪しなど、全てが手に取るように分かってしまうということだ。