自分の過去を振りかえったり、現在世の中を騒がせている出来事をつらつらと眺めたりしていると、社会によって指弾されるような、あるいは自分の心に良心の呵責を生じせしめるような、「悪」や「不正」や「嘘」というものの大半は、人間の「弱さ」に起因する場合が多い。だから、人間の「弱さ」を許容することは、多くの場合、多かれ少なかれ、人間の「悪」を許容することに通じると私は考えている。しかし、最近のわが国の風潮は、人間の「弱さ」を或る種の「人間らしさ」と見なしたり、「周囲がサポートすべきもの」と考えたりして、無際限に許容してゆく方向に大きく傾きつつある。このことは真っ直ぐ、ありのままに物事を見ようと努める人にとっては容易に観察できることであろう。

たとえば、わが国で、親鸞を殊更に高く評価し、持ち上げる思想家・文筆家が多いのは、この風潮の一つの現れである。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。所謂「悪人正機説」だが、「人間の弱さを許容する」という点において、これ以上、強く鮮明に言い放たれた言葉を私は知らない。そして私はどうしてもこういう考え方や立場を好きになれないのだ。親鸞を高く評価するような人々が所謂オピニオンリーダーとして戦後長く日本の論壇を支配しつづけて今に至っていることは、わが国の思想界のある種の特長と特殊性を示す事例の一つに数えられて良い。(私は親鸞については通り一遍のことしか知らない。だから、所謂「悪人正機説」が親鸞の思想の根幹をなすものなのか、あるいは都合の良いところだけを現代風にアレンジして利用されているのか、よく分からないが・・・)

一方「教育」に目を向けてみれば、わが国の義務教育課程では既に「弱さを許容する」教育が、長い期間にわたり行われている。この教育方針によれば、才能の有無や努力の如何(いかん)によらず人は常に平等でなくてはならないし、人間に白黒・強弱をつける「競争」はむろん「悪」ということになる。だが、このような教育は「資本主義」経済の中で生きる我々にとってはまさに矛盾であり、実生活上から教育に対して異議なり疑問符なりが突きつけられてよいはずだが、実業界も教育学者も文科省も教師も親も、その是非について真剣に考えて議論している様子は見えない。またこのこと(人間の弱さをどこまで許容するのか、あるいは矯(た)めるのかという問題)が根本的な教育上のテーマの一つであることを理解している人間も少ないようだ。戦後のわが国のあらゆる問題がそうであるように、誰も何も考えずただ戦後の「風潮」に流されて今に至っているに過ぎない。

もちろん、人間が弱い生き物であるということは疑いようのない事実であり、私もそれを認めるのに吝(やぶさ)かではない。「人間は自然の中で最も弱い一本の葦にすぎない。だがそれは考える葦である」とかつてフランスの哲学者は言った。しかし現代の我々からすれば、「人間の物理的・身体的弱さを補う思考能力、あるいは理性」というこの考え方は、あまり魅力的ではない。もはや自明すぎるからである。人間より遥かに強い諸動物に人間は打ち勝って既に久しい、むしろ現在はそうした動物を絶滅しないように保護してやらねばならない状況だ。また、自然に対する「開発」の手は既に宇宙にまで及んでいる。

今、われわれが問題とすべきなのは、「人間の物理的・身体的弱さ」ではない。むしろ「精神的弱さ・道徳的弱さ」の方なのである。これもまた人間の思考能力や理性によって補うことが出来るのか?・・・場合によっては可能なこともあるかもしれないが、私は「不可能である」と断案せざるを得ない。定理や方程式を使って、人間がまともになったり立派になったりする筈がないし、そもそも理性的・合理的判断に従えないところが人間の「弱さ」なのだから・・・。(だからパスカルも最後には「神」の問題に行き着かざるを得なかったのだ。)

このあたりが非常に難しい。弱い人間が虚勢を張って「オレは強い」と思うこと、思おうとすることは、虚偽であり自己欺瞞である。また、弱い人間、困っている人に手を差し伸べるのは個人道徳としては賞賛されるべき行為である。だが、社会的要請は、人間の悪を矯めるために、あるいは資本主義をさらに進展せしめるために、弱さを克服せよという。いや、社会的要請だけではない。人間はおのが精神のうちに、強さへの志向というものを強く持っているものだ。教育に話を戻せば、行き過ぎた「スパルタ教育」や「偏差値教育」はよろしくないが、かと言って、その対極にあるような現行の教育も非常に問題があるように感じる。どうやら、どこか両者の中間あたりに、程良い加減の Standpoint とすべき地点がありそうな気もする・・・。

人間は「考える葦」というよりも「上方へ向かって、あるいは左右に向かって伸びゆかんとする葦」である。そのことの方がより一層重要なことであるように、私には思われる。特に教育においては・・・。大リーグのイチロー選手が「ナンバーワンよりオンリーワン」という考え方が大嫌いだと話しているのを前に聞いたことがある。私も嫌いだ。「今の自分」を全肯定してそこに安住し、何も変わろうとしないならば、「満足したブタ」と何も変わるところがない。「世界で一つだけの花」などと言って、人間をそんな動物的存在にまで引き下げようとする教師が行う教育は、「教育」そのものの否定であり、まさに「教育の墓場」であると思う。

だがしかし、実は私も、人は他者との比較においてのみ、自分を是認したり、否定したり、誇ったり、恥じたりしてはならないと強く感じている。上記と矛盾するようだが、やはりそう思う。誰でも「世界で一つだけの花」であり、それ故に尊重されねばならないということは間違っていない。だが、小・中学校あたりの教師が教えることでは断じてない。その任にあらずだ。彼らはそうやって己(おのれ)と生徒たちの「怠惰」を助長しているにすぎない。「誰によって発せられるか」によって、真実にもなり、虚偽にもなりうる言葉がある、ということをもっと学ぶがよい。

老若男女、だれでもナンバーワンを目指してどんどん競争するがいいと思う。そして、勝とうが負けようが真剣に頑張ったものだけが最後に悟ることになるのだ、打ち勝たねばならないのは結局「自分自身」なのだと・・・。他者との比較ではない、「自分自身」こそが問題なのだと・・・。このような文脈で発せられた「ナンバーワンよりオンリーワン」でない限り、私は今のところ認めたくないし、認めることが出来ない。