心を浄める」ということについて書いてみたいと思う。最初にお断りしておきたいが、このテーマから類推されがちな、今流行(はやり)のスピリチュアルな話、あるいはオカルティックな話は、期待しないで頂きたい。僕にはそういう趣味はない(笑)。?むしろ、これから僕が書こうとしていることは「精神衛生」的な方面の話である。

日々、あれこれと仕事や生活に追われ、社会の中で忙(せわ)しなく立ち交じって動いていると、いつの間にか徐々に自分の心が汚れていく、あるいは汚されていく、という比喩を以て形容したくなるような精神状態になることが僕にはたまにある。(皆さんにはこういうことはないだろうか?) 「疲れ」や「ストレス」がたまるという感覚ではないのだ。透明な水底に徐々に澱(おり)がたまって水が濁(にご)っていくような感じだ。心が汚れてくると、普段安定しているはずの自分の情緒が、微妙に揺らぎだす。少しイライラしたりいつもより怒りっぽくなったり・・・。むろん、僕も大人だから、そうした感情を表立って他人にぶつけたり、他人にそれと悟られるようなことはあまりないと思っている(自分では・・・汗)。だが、こういう状況は決して好ましいものではないし、第一苦痛でもあるから、早くそこから脱却する必要がある。つまり、汚れて濁ってしまった心を浄めるという作業が必要となるのである。

むろん、「心が汚れる」とか「心を浄化する」というのは比喩的表現である。あるいは、「心の疲労」「疲労からの回復」とでも言った方が良いのかもしれないし、別のよい表現もあるかもしれない。だが、僕は今のところ、この表現を最もしっくりいくものとして用いている。

色々な経験を経て自分の「心」に関して以上のような観察をするようになった僕は、自分の心を良好な状態に保つために、「いかに日常生活において自分の心を汚されずにきれいに保つか」ということと「汚れてしまった心をいかに浄化するか」という二つのことに重きをおいて生活ようになったのである。いつごろから? そうたぶん10年くらい前からだ。(以下、箇条書きでこの二件に関する要諦を書いてみる。あくまで自分の経験に基づくものである)

? 「いかに日常生活において自分の心をきれいに保つか」

1.心根の悪い人間と接しない、2.良心の呵責や後悔を生じせしめるような悪事は働かない、3.心の荒むような汚い言葉を吐かない(「糞」とかFuck youとか・笑)、4.嘘をつかない、5.他人の悪口は慎む、6.劣悪な創作物(映像・文学作品・音楽など)は遠ざける、7.過度なアルコールの摂取は控える・・・(最後の項目は最近付け加えました・笑)

? 「汚れてしまった心をいかに浄化するか」

1.自分より優れた人(心のきれいな人)と接する、2.書籍などを通して過去の優れた人物の精神に触れる、3.優れた創作物(映像、文学作品、音楽など)に親しむ、4.雄大な、あるいは美しい自然と接する、5.自分の心に満足を起こさせるような善い行いをする・・・

つまるところ、人間の心は自分よりも「低い」存在や「悪い」行為によって汚され、自分よりも「高い」存在や「善い」行いによって浄化される・・・、そう言って良いのではないかと思っている・・・。

つらつらと自分の周囲の人々を眺めると、心のきれいな人がいる。心の汚れた人もいる。「生まれつき」なのか後天的にそうなったのかは人それぞれだと思う。30分くらい一緒にいると、・・・例えば偶々飲み屋のカウンターで隣どうしになりしばらく会話していると・・・、なんとなくおおよその見当がつくこともある。30分の会話から得られる情報はわずかだが、人は心と心でも会話し交流するものだと僕は信じている。そして頭ではなく心で感じる情報ははるかに多くて、意外と正確だ。

人は「環境」を選ぶべきだ。とくに「人的環境」が及ぼす影響は甚大である。悪い人間と共にいると自分も悪くなる。濁った汚い心は伝染する。一方、澄み切った美しい心の人と接すると、自分自身も浄化される。心というものがあるならば、そういうものだと僕は了解している。心と心の交流、これはおそらく人類が「言葉」を獲得する以前から、すなわち動物的段階から、すでにコミュニケーションの最有力の方法として、行われていたに違いない。このコミュニケーション法の難点は相手の泥までかぶってしまうということにある。社会生活を営む以上、心と心の交流は不可避である。だから人は悪い人を避け、良い人とのみ交わるべきだ。

広い意味での「感化」とは、まさにこういうことなのだろう・・・。人は良い方向へも悪い方向へも感化される・・・。「水は方円の器に随う」、「朱に交われば赤くなる」などと昔から言う通りである。

そう言えば、わが国の古代においては、「清明心(きよきあかきこころ)」が尊ばれたと聞いている。濁りなく、汚れなく、邪心なく、晴れ渡るように澄んだ心。そんな心で僕も日々を過ごしたいものだと思っている。なかなか難しいことだが・・・。

最後に一つ付言しておきたい。僕は僕自身のために、すなわち、自分の心の動揺を感じるのが不快だからそれを避けるために、いつ頃からか上記?、?を心がけるようになったのだが、期せずして、それは他人のためにもなり得る可能性があることに気がつく。自分のためにならないことは他人のためにもならない、自分のためになることは他人のためにもなる、これは多くの場合において間違いのないことのように思われる。