僕は自分に禁じている言葉がいくつかあります・・・。「にんげんだもの」という言葉もその一つです。最近色々なところで見かけますね、相田みつをさんのカレンダーやら色紙やらポスターやら・・・。こういう世界観というか考え方も全く理解しない、という訳でもないのですが・・・。

朝、学校に遅刻してしまった・・・良いんじゃない「にんげんだもの」、軽はずみな言葉で人の心を傷つけてしまった・・・時にはそういうこともあるよね「にんげんだもの」、ダイエットしているのに沢山食べてしまった・・・食欲はなかなか抑えられないよね「にんげんだもの」。このあたりまでなら僕も赦(ゆる)せるかもしれません、「にんげんだもの」(笑)

でもこれは赦せますか? 財布にお金がなく思わずスーパーで万引きしてしまいました・・・「にんげんだもの」、お金欲しさに人を欺(だま)してしまいました・・・「にんげんだもの」、カッとなって人を殺してしまいました・・・「にんげんだもの」・・・・。赦されるはずがありませんよね。

赦せる、赦せないの違いは、「程度の差」にしかすぎません。小さな悪や怠惰などを容認していると、いつかは大きな悪に発展しかねません。どこまで赦してどこから赦さないの? そんな線引きは不可能です。「にんげんだもの」などと甘えたことをいう人間、そういう言葉を常に「逃げ道」として用意している人間は、卑怯な人間です、弱い人間です。僕はやはりこういう言葉は一生使いたくないですね・・・。使い始めたらキリがないですからね。

相田さんも含めて、こういう言葉を好んで遣う人たちは「人間」というものを相当低く見積もっていると言わざるを得ません。「人間だから、〈何か悪いこと〉をする」「人間だから、〈何か悪い状態〉におちいる」。このだからは相当悪質で救いがたいだからです。「順接の接続詞」としては最悪の用例です。なぜ、「人間だから〈何か立派なこと〉をする」とか「人間だから〈何かよい状態〉にある」という風に言えないのでしょうか? 「人間」を端(はな)から軽蔑し馬鹿にしていますよね。

巷間、このような言葉は暖かみのある、思いやりに満ちた言葉だと受け止められています。本当にそうでしょうか? 僕には、人間不信者、怠け者、卑怯者の戯言(たわごと)にしか思われません。

えっ、「そんな厳しいこと言うなよ!」ですって? いいじゃないですか、にんげんだもの(笑)

新渡戸稲造の世界的に知られた著書『武士道』の中に、次のような逸話が紹介されています。

ある時、父親の仇を討つために左近と内記という24歳と17歳の兄弟が家康を襲いますが失敗して捕らえられてしまいます。連座(縁座)制が適用される江戸時代でありますから、一族の男子全員が切腹を命ぜられます。左近と内記と共に、末の弟、8歳の八麿も処刑場の寺に引き立てられます。その時、その場に立ち会った或る医者の日記にこのような記述があります。

『左近が末弟の八麿に「切損じなきよう見届けてやるのでお前が先ず先にやれ」と言います。すると八麿は「未だ切腹を見た事が無いので兄さま達の作法を見てそれに続きたい」と述べます。それは尤ものことだと両脇に座る兄たちが作法を教えながら腹を切ると、それを交互に見た八麿は静かに両兄から教えられた範に従って従容として死に就いた』とあります。

凄まじい話です。新渡戸は「武士道」精神の一つの顕れとしてこの逸話をひいています。繰り返しますが八麿は僅か八歳。しかし武家の子供でありますから、日頃親からは「武士は武士らしく」と厳しい躾を受けてきたのです。僕は切腹などという野蛮な慣習を認めることは出来ませんし、八歳の子供にそれをさせるなどもってのほかだと思いますが、それと、八麿が死に直面して立派に振る舞ったか否かは別の話。僅か八歳(現代ならば小学校3年生)で「武士らしく」、自ら「従容として死に就いた」八麿の姿に心を打たれます。新渡戸も同じ気持ちでこの逸話を紹介しているのです。

「武士なのだから」と、二人の兄の切腹を手本に自ら見事に腹を切った八麿。一方で「にんげんだもの」と言って、際限なく人間の弱さ、悪さを認めてしまう現代のある種の人々と浅ましき風潮。この「武士なのだから」と「人間だもの」の両者の間には何という懸隔(へだたり)があるのでしょうか? 恐るべしです。八麿にとって「武士」とはある種の「理想」を表していますが、「にんげんだもの」と嘯(うそぶ)く人間にとって、「にんげん」とは自らの劣悪な存在と行動に「言い訳」を与える最低限の存在にしか過ぎません。「理想」を持つ者と持たざる者。かくまで人間は立派にもなり、かくまで人は醜くダメになる。人間の常日頃の「心がけ」とか「考え方」とかいったものは、大事なものだと思います。

えーっと、それで何を言おうと思っていたんだろう僕は・・・。忘れてしまいました・・・、やれやれ、にんげんだもの・・・(笑)