ここのところ、或る事件をきっかけとして、いじめの問題が大きく世間やマスコミ・マスメディアを賑わせている。いつものことだが、今回もマスコミ・マスメディアの連中は、事件の表面・表層のみを撫で回し、掻き回して、やれ誰に責任があるの、やれ教育委員会はどうの、校長はどうの・・、と「ワイドショー」的報道に終始している。やれやれ、だ。

「いじめ」とは何か?原因は何なのか? きわめて「日本的な」問題である。いじめは昔からあったし、これからも残念ながら無くなることはないだろう。なぜなら我々が日本人だからだ。日本人の社会的DNAにそれは深く刻みこまれている。いじめを生む「風土」が、一方では、日本人の組織的活動にある種の規律を与え、成員の遵法精神の向上や帰属意識の涵養に一役買ってきたのである。何にでも光と影があることを忘れてはいけない。

それを踏まえた上で、「どうやったら今回のようないたましい事件を防ぐことが出来るのか?」を考えようではないか? 机上の空論、きれい事、建前論に終始しても、これまでの繰り返しで何も解決しない。

一神教的、絶対的で、父性的な「神」を持たない日本人を、「悪」から遠ざけているものがあるとするならば、それは「世間の目」である。「世間の目」はこれからも必要である。「世間」は時に「制裁」として「いじめ」を行う。何も児童生徒の世界に限ったことではない。大人の世界でもそれは数え切れないくらい沢山行われている。大人にやめられないものがどうして子供にやめられようか?どだい無理な話である。僕の子供の時にもいじめはあった。大人になってからもそれはあった。いつでもあったのである。

昔、サラリーマンだった時、高等学校の教科書を売り歩いていた時、或る私立高校の校長先生に言われた言葉を今でも忘れない・・・。「職員室で教員同士でもいじめがあるんだから、生徒間のいじめだって無くなるわけがない」 そう校長先生は断言した。その通りだ!(この校長先生、ヒラの教諭だった時、組合に加入しなかったために随分いじめられたとか。) だが今、もし事故のあった学校の校長がこんなこと(=本当のこと)を言ったら、強烈な非難とバッシングを受けるに違いない。でもこの校長は本当のことを言う勇気がなかったのか、代わりに、みっともなくも生徒の前で泣いて見せたのである。

問題は「程度」の問題である。命を絶つまで人を追いつめるような「制裁」が行われて良いはずがない。多くの大人はそのあたりの加減を心得ている。子供にはまだそれが分からないし、傷つきやすい。だからこそ大人の目が絶えず注がれることが必要なのである。特に担任の教師が今回の件につき、適切な対応をとったかどうか、そのあたりをキチンと検証してゆく必要があろう。この件に関して周囲の大人の責任は重い。

以上のようなことを言うと、「お前はいじめを容認しているのか、日本的習慣として、あるいは必要悪として黙認するのか?」という批判を受けそうなので、一言付言しておきたい。

僕はいじめを肯定も否定もしない。上に書いたように「程度問題」だと些か感じてはいる。ただこれだけは言えるのは、僕自身はこれからおそらく死ぬまでいじめには荷担しないだろうし、したくないということだけである。一人の者を複数でいたぶるのはよろしくない、美しくない、潔くない、男らしくない。だが、このように感じるようになった、考えるようになった僕も、過去にはいじめた経験もいじめられた経験もあるのだ。学ぶのには時間がかかる、殊に僕のような凡人には・・・。

だがそれは人それぞれの考え方だ。他人に自分と同じようにしろ、俺と同じように考えろ、とは言わない。しかし今回の事件について言えば、いじめた人間を今度はいじめかえすような愚を、世間は今、犯していないだろうか?心情は分からぬでもないが、何か釈然としない。だが、それだけ「いじめ」問題は根が深いのだ。