快楽の飽くなき追求が、かえって人間を「快」の状態から遠ざけることは、経験的、あるいは感覚的に誰もが知っていることではないだろうか?快楽の追求に一定の歯止めをかけることは、洋の東西を問わず、古来より奨励されてきたのである。それを「禁欲」という言葉で表現するのならば、キリスト教、ジャイナ教、バラモン教、仏教、イスラム教など、世界的、歴史的に一定の普遍性を有すると目される宗教においても、「禁欲」は奨励されてきたのである。反対に、快楽の飽くなき追求こそが人間に幸せをもたらすとみなすことが「快楽主義」の立場であるとすると、そのような「快楽主義」は人類の歴史上で、一瞬の光芒をどこかで放つことがあっても、すぐに流れ去ってしまう星のような存在でしかなかった。エピクロスなどの志向した快楽も結局、「人間本来の精神的な快楽」であって、たとえば現代人が「酒池肉林」といった熟語から想像するような「快楽」ではなかったのである。東洋においても、中国の楊子、インドの順世派、タントラの宗教、その流れであるチベット密教の一部流派、あるいはわが国の立川流のような快楽主義的な系譜も主流とはなりえなかった。

快楽にさえも慣れてしまうのが人間である。慣れてしまったらより一層強い刺激や快楽を求めるしかない。キリがない。人間は誰でもそのことを実は「本能的に」よく知っているのである。釈尊はいみじくも次のように教えている。「たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。“快楽の味は短くて苦痛である”と知るのが賢者である」と。 (『真理のことば ダンマパダ』第186偈)

ここで未成年者の喫煙や飲酒について考えてみる。宗教や文化は違おうとも、現在殆どの国と地域で、未成年者の喫煙や飲酒は好ましくないものとされている。なぜか? 未成年者はまだ体が出来上がっていないので身体に悪いから、とよくわが国では説明されるのだが、よく考えるとこれは少し変だ。未成年の体に悪いものは成人にだって悪いのである。20歳を過ぎたら突然、酒や煙草の毒に対して免疫が出来るわけでもあるまい。僕は、未成年者に喫煙や飲酒が禁止される理由は、先述した快楽の性質、すなわち「快楽の味は短い」ということに関係していると思っている。

酒や煙草は快楽を喚起する一種の薬物であるが、これらは時間的、量的に、「無限に」楽しめるわけではない。「限度」があるのである。「限度」まで行きついてしまったら、もっと刺激の強い代替物を求めるしかなくなる。あるいは、酒の場合は、行き着くところまで行ったら、「依存症」という大いなる「不快」が待ち受けている。すなわち酒と煙草に関しては限度に達する前に寿命が尽きるような摂取の仕方が求められているのである。限度まで達するか否かには、当然、累積的に摂取された「期間」と「量」が関係してくる。未成年の時分から酒や煙草をスタートしてしまったら、当然オーバーペースになり、寿命よりさきに摂取限度に達する可能性が高くなる。だからそれを遅らせるために、未成年者にはこれらが禁止されているのである。多くの地域と国において、未成年者の異性間の交渉が制限される理由も、同じ所にあると僕は考えている。

こう考えると人間とは、或る意味で、本然的に禁欲的な生き物であるのかもしれない。享楽的などといっても、たかが知れている。限度を超えた快楽や享楽には人間は堪えられるように出来てはいない。山海の美味・珍味を目の前に山ほど並べられても、出るのはゲップだけだ。

快楽に対して放逸でだらしない人間はどこの国でも歓迎されない。嗜好品や薬物に関して許されるのは酒、煙草あたりまでであり、麻薬などはもってのほかだ。自らの欲望に自らある程度の歯止めをかけられることが、大人を大人たらしめる要件であり、周囲から大人と見なされる条件である。また、それが「幸せ」に生きるための最低限の条件でもある。

世の大人は、何も理不尽に未成年者に飲酒・喫煙を禁じているわけではない。その根柢には「処世智」と「愛情」が隠されている。未成年時代は、このような薬物を使わなくても幸せに暮らしていける、大人から見れば実に羨ましい時期なのである。