オリンピックが始まった。最近歳のせいか、一つのオリンピックが終わるとすぐに次のオリンピックが巡ってくる。その間、4年も経過しているとはとても思われない。時間の経過が早くなるのは加齢による現象の一つだろう。

以前はオリンピックにかなり注目してテレビなどを見ていた記憶があるが、最近はあまり関心がない。日本人選手がメダルをとったりすると、翌日以降に「後追い」で情報を得るのに努める程度。フランスのクーベルタン男爵が創立したとされる近代オリンピックだが、その精神や意義に賛同する気持ちもあるものの、一方で、大会運営のあり方に対しても、またわが国、および世界の国々のそれに対する姿勢や考え方に対しても、違和感や嫌悪感を覚えることがある。殊に近年、わが国のマスコミ・マスメディアが、恣意的・意図的にオリンピックを盛り上げようと躍起になり、開催のかなり前からこぞってキャンペーンをはり、「提灯記事」ならぬ「提灯報道」を垂れ流し続けるのは実に見苦しいことであり、却って興ざめである。

オリンピックにおいて僕が不快感を覚える最大のことがらは、オリンピックを国威発揚の場、あからさまなその手段ととらえている国々(しかもそういう国に限って国際間における仁義を通さないヤクザな国が多い)や人々が多く存在することである。

考えてみて欲しい。例えばA国の国民であるZ氏がオリンピックで金メダルをとったとしても、A国が優れていることにはならないし、A国民が優秀であることも意味しない。ましてやA国の製品が壊れにくいとか、A国が平和を愛する立派な国であることも意味しない。ただZ氏が努力してスポーツにおいて或る偉業を成し遂げたということだけである。

同様に僕は日本国民で日本人であるが、オリンピックにおいて同じ日本人である北島康介氏が金メダルを獲得したとしても、僕自身が優れていることには全くならない。北島氏に寄せられる賞賛や与えられる名誉については北島氏だけが受け取る権利があるのであり、そのオコボレにあずかろうなどというさもしい性根は所持していないつもりだ。「北島康介は優れている。北島康介は日本人である。だから日本人である自分も優れている」などという、ナショナリストの変則三段論法?は、自分はまっぴら御免だ。だがこういう思考回路の人間は案外多い。

僕が最近オリンピックが苦手になった理由・・・。改めて考えてみるとそれは、オリンピックが、日頃自分の思考から遠ざけがちな「個人と国家」に関しての複雑な感情を意識させ、様々な問題を突きつけてくるからに他ならない。

僕は、国家に自分のアイデンティティの大部分を重ね合わせ、国家と自分を不可分と見なすような人間ではない。かといって、国はいつでも市民を抑圧する敵だから、市民は団結して国と戦わなければならない、権利を勝ち取らねばならない、市民の市民による市民のための政治が行われるべきであるなどと奇声を挙げる人間の仲間でもない。つまるところ、ある種の右翼と全ての左翼は政治主義と国家主義の両方を兼ね備えるという点で僕とは無縁の衆生である。あえて自分の政治的立場を一言で規定するならば、「国家を目的ではなく手段として見なすところの自由主義者」とでも言ったら良いであろうか…(笑) それについては過去にこのブログで書いたこともあるし、今回ここで述べるつもりはない。

僕は、オリンピックという「お祭り騒ぎ」の喧噪から一人離れて距離を置き、遠くから聞こえてくる祭り囃子を聞くともなく聞いている・・・、そんな変わり者なのである。そしてそんな変わり者の自分を恥じてもいないし、変えたい、変わりたいとも思っていない。笛を吹いても踊らないこんな人間ばかりであったら、オリンピックがらみの番組は視聴率がとれなくなる、関連商品は売れなくなる。現代日本の高度資本主義経済は成り立たなくなる。だから自分のような人間は少数派で良いと思うのである。自分は自分なりに国を愛してはいるが、こういう愛し方はしない。そういうことでもあるのだ。

【付記】上記とは別の問題ではあるが、「なぜ日本人はオリンピックが好きか?」というテーマは実に面白い問題を孕んでいる。日本人の「国連」好きや「オリンピック」好きは世界的に見ても異常である。(さらに言えばWBCに対する熱の入れようなどもここに入れて良いと思う) 機会があれば改めて考えてみたいし、ちょっとこのブログで採り上げても良いと思っている。