「職業人」の陥りやすい誤謬があります。「自分の仕事が世の中の中心で、それで世界が回っている」と過大に評価し、思いこんでしまうこと。法律屋は法律で世界が全て律せられていると思い、金融屋は金の流れが世の中を支配していると考え、保険屋は保険こそが…自動車屋は…医者は…クリーニング屋は…八百屋は…ハンコ屋は…。皆、大なり小なりそんな傾向があるように感じます。

でも本当は、この高度に専門化され分業化された現代社会にあっては、自分自らが従事する仕事・職業が世間に影響を及ぼす範囲なんて全体の中の極小な一部に過ぎないのです。このことをしっかり感じられる人・理解出来る人には、他者に対してのある種の「謙虚さ」と「思いやり」が生まれるのではないでしょうか。自分と違った業種・職種に就いている人々にも、自分と同じく仕事の上で大変なところ、優れたところ、立派なところなどがあることを、推察することが出来るようになるからです。

前置きが長くなりましたが、私が言いたいのは、こういうことです。近年我が国で「裁判員制度」を率先して準備し、運動し、導入した法律屋たちには、この「謙虚さ」が決定的に欠けています。「我々が従事する法律こそが世界の中心!だから、金融屋も、保険屋も、八百屋も、ハンコ屋も…、裁判員に選ばれた以上、皆が自分の仕事を休んで、裁判に出席しなければならないのです、エヘン。」

おいおい、本当に世の中の中心が法律なんですか。裁判員になったら裁判に出席することが国民の「義務」? 国民として他にもっと優先すべき「義務」はないの? 僕の頭は疑問で一杯になります。

僕は断言します。法律は世の中の中心などではありません。それどころか我々が守るべき規範のほんの一部を構成するものにしか過ぎません。例えば我々が殺人を犯さないのは法律で禁じられているからではありません。窃盗しないのも、暴力をふるわないのも、その他、あらゆる「犯罪」から我々を遠ざけているのは、殆どが昔ながらの所謂「道徳」という規範のたまものです。普段我々は特別な場合を除き、法律をさして意識などしていないし、それでまっとうに暮らしています。このどこが不足なんでしょう? 「裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民の信頼向上につながる」というのが裁判員制度導入の目的だそうですが、この言葉ってものすごく横柄だと思いませんか?

例えば自動車屋が世の人々にある種の「義務」を課しておいて、その目的が、「自動車が身近で分かりやすいものとなり、自動車に対する人々の信頼向上につながる」なんて言ったら、怒られてしまいますよね。「それは自動車屋さん、あんたがやれよ!」でお終いです。金融屋も保険屋も肉屋も、その他あらゆる業種の人々は他人から「信頼」を得るため先ずは「自分」で努力します。これがデフォです。しかし裁判員制度を導入した法律屋(判事・弁護士・法学者)たちにとっては、「信頼向上」のために努力するのは自分でなくて「相手(国民)」ということになります。私が「横柄」と形容した所以です。

どうしてこうもたやすく他人に新たな「義務」を課すことが出来るのでしょうか、この統制主義者たちは。「自由」の価値を信じ、「自由」を愛してやまない私としては、その背後にある思想が何やら怪しい出自のモノに思えてなりません。