日本の年間自殺者の数が、12年連続で3万人を超えている、というニュースを読みました。3万人とは驚くべき数字です。ちなみに人口三万人程度の都市を以下に挙げてみます。

新潟県村上市 30925人 、広島県竹原市 30862人、佐賀県嬉野市 30646人、岐阜県山県市 30517人、福岡県宮若市 30509人、広島県江田島市 30406人、高知県香美市 30313人、広島県大竹市 30145人 、熊本県阿蘇市 29840人、高知県土佐市 29781人、熊本県水俣市 29780人、北海道美唄市 29628人…

毎年、この程度の地方都市が一つずつ消滅するくらいの惨事が、自殺によって起こっています。誠に痛ましく悲しいことです。また自殺率に換算すると、先進諸国の中で日本が飛び抜けて高いことも指摘されています。「物質的には豊かなのに自殺が多い」と日本の場合言えそうです。「どんなに辛いことがあってもせっかくもらった命を…」そう誰もが感じるでしょう。

この理由は何なのでしょう? 理由をつきとめれば対策の道もひらけてくるかもしれません。「格差社会」「高ストレス社会」「不景気」「高齢化」など、複合的な理由が挙げられています。概ね僕もそうした分析に同意します。・・・が一方で、自殺を「社会学的」にのみ論じることに若干の違和感も覚えるのです。もし景気が良くなったら、格差が是正されたら、自殺者は劇的に減るのでしょうか?

「自殺」は極めて「個人的な」行為です。一人の人間の死生観、人生観、宗教観などから導き出される最後ののっぴきならない「結論」であり、ほかの一切の動物には見られない、ある意味最も「人間的」な行為でもあるのです。自殺を実行しなくてもその空想を巡らすことが、煩瑣な現実世界に於ける一種の「清涼剤」として機能することもあるだろうし、ある人にとっては「逃避」であり、ある人にとっては「救済」であり、またある人にとっては「完成」を意味することだってあるかもしれません。また、これは尊厳死の問題にも関わってきますが、人は意味を見いだしがたい「生」よりも、むしろ「死」を選ぶということがあります。

自殺者は地獄に落ちるとするキリスト教やイスラム教の社会と比べて、日本人は伝統的に自殺に対してある種の「寛容さ」を持っています。近松の浄瑠璃などでお馴染みの男女の心中、武士の諫死や殉死、即身仏や補陀落渡海、姥捨山、土木工事に於ける人柱、近くは特攻隊など、半ば強制的な事例もあったかもしれませんが、「本人同意の死」というものが、日本では諸外国に比べて歴史的に多く行われてきたという印象があります。

したがって、日本人の「死生観」と密接に関わる「自殺」ということを単純に数値の上で比較して、日本は他の国に比べて「生きにくい国」だと結論づけるのは、やや早急の感を免れません。自殺防止のため「社会学的」「医学的」に、すなわちテクニカルに対応できるところは速やかに対応するべきだと思います。しかしどのような「理想社会」を実現しようと自殺者はなくなりません、それは人間が人間である限り致し方ないことだと思います。ほかの動物と同様、生存の欲求や本能をもちながら、同時にそれを超えたところで生きることが、人間を人間たらしめていると思うからです。

暖衣飽食で長生きすることだけが人生の目的でない以上、すなわち人間が「夢」や「理想」を追い求め、「栄光」と「挫折」を繰り返す存在である以上、「自殺」という問題は絶えず付きまとってやまないでしょう。結論は出ません、大変難しい問題です。